高家神社の由来

主祭神

磐鹿六雁命いわかむつかりのみこと(尊称・高倍神たかべのかみ
天照大神・稲荷大神を併せ祀る

ご由緒

 「日本書紀」の第12代景行天皇53年冬10月の条に祭神・磐鹿六雁命について記されていますが、延暦8年(789)に磐鹿六雁命の子孫である高橋氏が朝廷に奉ったとされる「高橋氏文うじぶみ」にさらに詳細に記述されています。

 景行天皇が皇子日本武尊やまとたけるの東国平定の事績を偲び、安房の浮島の宮に行幸された折、侍臣の磐鹿六雁命が、弓のつるをとり海に入れた所堅魚かつおを釣りあげ、また砂浜を歩いている時、足に触れたものを採ると白蛤しろうむぎ(=はまぐり)がとれました。磐鹿六雁命はこの堅魚と白蛤をなますにして差し上げたところ、天皇は大いに賞味され、その料理の技を厚く賞せられ、膳大伴部かしわでのおおともべを賜りました。

 この功により若狭の国、安房の国の長と定められ、以後代々子孫はかしわでの職を継ぎ、もし世継ぎのないときは、天皇の皇子を継がせ、他の氏を交えず、皇室の食事を司るよう賜りました。
 また、大いなる瓶(かめ=べ)に例え、高倍さまとして宮中醤院ひしおつかさで醤油醸造・調味料の神として祀られています。醤には、野菜を発酵させた草醤くさびしお、穀物を発酵させた穀醤こくびしお、魚などを発酵させた肉醤にくびしおがあった。今でいう漬物・味噌醤油・塩辛の三種だが、これらは日本料理の基礎をなすものであり、磐鹿六雁命が料理の祖神とされる由縁です。
 高家神社は延喜式神名帳に登載される小社の一つです。現在の所に祀られたのは江戸時代の初頭にさかのぼります。
 元和6年(1620)、現在の宮司の祖先となる高木吉右衛門が桜の木の下から、木像と二面の御神鏡を発見し、社を建てて祀りました。
 200年余りの後、この鏡面に御食津神みけつかみ、磐鹿六雁命と記されていたことがわかり、当時所在があきらかではなかった高家神社の御神体であるとして、文政2年(1819)に京都吉田御所に証を願い、御幣帛ごへいはくをいただきました。神社拝殿内正面の御神号額はこの時のもので、神祇道管領卜部朝臣良長うらべあそんよしながの銘が刻まれています。
 江戸時代以降、醤油沿革史の著者・田中直太朗(金銚子)氏、料理法大全の石井治兵衞氏、さらには日本料理研究会初代理事長・三宅孤軒氏等の労により、祭神の御神徳が発揚され今日に到っています。